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キングエルメスのモーリスドギース賞、バスラットレオンのジャックルマロワ賞、現地レポート

ドーヴィル競馬場で行われたモーリスドギース賞(GⅠ、芝、直線1300メートル)、
ジャックルマロワ賞(GⅠ、芝、直線1600メートル)について
平松さとしさんの現地レポートです。



洗い場では日本のように馬を張って固定出来なかった。そのため1人が引き手を持って、もう1人が馬体を洗う。国内なら1人で出来る作業に、ここドーヴィル競馬場では倍の人員を要した。時に坂井瑠星が馬を持ち、時には指揮官である矢作芳人が馬を留めた。
もっとも、こういった差異に驚きの声をあげたり、不満を言ったりするスタッフは誰一人、いなかった。国境を意識する事なく、栗東から北海道や小倉へ運ぶ延長のように世界中で馬を走らせる矢作厩舎のメンバーは、海外遠征とは“こういうモノ”である事を、知っていた。
 


 現地時間8月7日。かの地でモーリスドギース賞(GⅠ、芝、直線1300メートル)が行われ、矢作はここにキングエルメス(牡3歳)を挑ませた。約1ケ月前の7月9日、イギリス、ニューマーケット競馬場でジュライC(GⅠ、芝1200メートル)を走った。スタートは今一つだったがすぐにリカバリーして先行。鞍上の坂井が手を動かしてからもしぶとく粘る素振りを見せたが、最後は力尽きて11着に敗れていた。矢作は、レース直後、VTRを見ながら「この馬のベストは1400メートルだと思うけど、イギリスの競馬場はタフだから1200メートルくらいで丁度良いと考えて挑ませました。でも、少し間も開いていたし、厳しかったですね」と言った。そして、気を取り直すように、続けた。



「次はもっと良くなるでしょう」
 その“次”がこのモーリスドギース賞だった。アップダウンの激しいニューマーケット競馬場の1200メートルから平坦のドーヴィル競馬場の1300メートル。条件的には好転していると考えられた。
 「ジュライCの時も状態は悪くはなかったけど、使われて確実に良くなっています」
 バスラットレオンのサセックスS(GⅠ)に合わせて7月25日にイギリス入りした後、2頭の様子を毎日見ていた伯楽はそう言った。30日にはイギリスのニューマーケットからフェリーと陸送で約13時間をかけてドーヴィル競馬場に入った。矢作はユーロスターでパリに入った後、車でドーヴィルへ移動。到着した2頭を見て、感じた。



 「栗東から北海道へ陸送するより短い時間で済みますからね。何のダメージも感じませんでした」
 ジュライCの直後に、調教助手の荒木裕樹彦をフランスへ送り込み、競馬場内の厩舎の環境を調べさせた。その結果、全く問題ないと判断。坂路のあるニューマーケットやシャンティイではなく、直接競馬場へ入れる事で、レース直前の輸送というデメリットを削除した。しかしそれは同時に坂路がないというデメリットには目を瞑った形だが、これには次のように説いた。
 「2頭とも1度、使われてそれほど強い負荷をかける必要はなくなっていますから……」
 心配していた開催日の喧騒などにも2頭はケロリとしていたとも続けた。
 「2頭共に飼い葉をよく食べていて、ノンビリし過ぎかとかえって心配になるくらいです」
 食べなければ食べないで不安になるであろう責任者としての心の内が見え隠れする言葉だった。
 こうして迎えたレース本番。ゲートにいざなわれたキングエルメスは、全頭のゲートインをボックス内でしばらく待たされた。
 「何も問題ありませんでした」



 当時の様子をそう語ったのは鞍上の坂井だ。その言葉を証明するように、前扉が開くと他の13頭を引き連れて、ハナへ行った。
 「本当は何かに(先頭へ)行ってもらって、2列目あたりで競馬が出来れば、と考えていたけど、日本馬のスタートは速いから、ああなったら行くより仕方ないでしょうね」
 見守った矢作がそう述懐したように、鞍上も次のように言った。
 「あれだけ出たら抑えるのはかえって良くないと思いました。行くしかありません」
 こうしてヨーロッパ勢を引き連れたキングエルメスだが、残念ながら最後は失速。11着に敗れた。
 「状態は良くなっていただけに、言い訳出来ません。力負けを認めないといけないでしょうね」
 伯楽は絞り出すようにそう言った。
 


 それから3日後の8月10日の早朝。朝日を右後ろから浴び、自らの影を追うように追い切られたのがバスラットレオンだ。サセックスS(GⅠ)でバーイードの4着に健闘した同馬は、この週末に行われるジャックルマロワ賞(GⅠ、芝、直線1600メートル)に予定通り駒を進めた。



 「唯一にして最大のポイント」と矢作が語ったのが直線1600メートルという舞台設定。日本にはない戦場で、当然、調教でさえ走らせるシチュエーションがなかった。そのため、最終追い切りではこの直線コースを使い、1000メートルほどのギャロップを行なった。
 「日本馬はコーナーで息を入れる習慣がついていますからね。直線の1600メートルというのはどこで息を入れれば良いか……。少しでも慣れてもらうために、直線コースで追い切りました」
 と、矢作。一方、実際に手綱を取った坂井は次のように言った。



 「芝の直線コースで初めて走ったので、少し戸惑っている感じでしたけど、調教の動きそのものは良かったです」
 更に4日後の8月14日。ジャックルマロワ賞当日を迎えた。連日、晴天で避暑地として知られるドーヴィルとしては暑い日が続いていたが、本番当日は曇天。時折、ごく弱い雨がパラつく時間帯もあった。
 「馬場に関しては問題ありません」



 先述した通り晴天続きだったため、散水により“Bon Souple”(稍重)発表となった馬場だが、矢作はそう言った。また、レース前に自分の足で歩いて確認した坂井は「真ん中からスタンド寄りの(馬場の)状態が良いですね」と語った。
 パドックでの周回を終え、そんな馬場へ飛び出すと、いきなりモノを見たのか右側へ飛ぶような素振りを見せたパートナーの上で、鞍上が振り落とされそうになるシーンがあった。苦笑しながら坂井は言う。



 「ドキッとしました。ここで落とされるわけにはいきませんからね」
 必死に捕まり、抜群のバランス感覚で立て直すと、何事もなかったように返し馬へ移った。その様をみた矢作は思った。
 「それだけ余裕があるのかと思えたけど、あの馬としては珍しいですね」



 日本と違い、返し馬を終えてからゲートインまでの時間は短い。「キングエルメスと違って、ゲートの中で長く待たされるのは良くない」と、陣営は後入れをリクエスト。その希望が通り、枠内へ誘われると、すぐにスタートが切られた。



 サセックスSはスタート地点が下り坂だった事もあり、躓き癖を露呈したバスラットレオンだが、ここはスムーズに発馬。先頭を奪うと、鞍上にいざなわれ、スタンド寄りのラチ沿いを走るコース取りを選択された。後にこのコース取りは作戦通りだったと矢作は言った。



 「瑠星と相談して、綺麗な馬場状態であり、且つ逃げるならラチも頼らせた方が良いだろうという事で、そこを走らせました」



 前半を47秒85、5ハロン通過は59秒33で他馬にはハナを譲らずに行った。軽快なペースでの逃げだったが、残念ながらそこで後続勢に捉まった。前へ行った組は皆、後退。差し馬が台頭し、とくにアスコットの馬場でも上がりで11秒台の脚を使ったインスパイラルの末脚は鋭く、この馬が伸びて来た時にはバスラットレオンに抵抗する力は残っていなかった。結果、1分34秒07の好時計で勝利したインスパイラルから遅れる事、約8馬身、日本からの挑戦者は9頭立ての7着に敗れた。



 「カッカする馬だけど、滞在効果で落ち着きはありました。ただ、直線の1600メートルという事で『全く息が入らなかった』と瑠星が言っていましたが、実際その通りだったのだと思います」



 ドバイではパンサラッサと共に歓喜の輪の半円を担ったバスラットレオンだが、ヨーロッパでは残念ながら中東の再現とはならなかった。それでも矢作は続けて言った。
 「キングエルメスはまだ3歳だし、バスラットレオンは気性面でまだ成長の余地のあるタイプ。2頭共に、今回の遠征は必ずや、今後に活きると思うし、私の立場としては活きるようにしてあげないといけないと考えています」



 こうしてキングエルメスとバスラットレオン、広尾レース2頭による夏の欧州キャンペーンは幕を閉じた。共に2戦し、いずれも好結果とはならなかったため、肩を落とした矢作だが、日本の調教師として、海外で勝つ事の難しさを最もよく分かっているのも彼である。今回の経験が必ずや今後に活かされると信じたい。キングエルメスとバスラットレオンの帰国後の走りに改めて注目しよう。