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Bijoux Miss ’14 フロリダへ(著:合田直弘氏)

Bijoux Miss ‘14が早ければ9月中にもイアドラファームから名門育成牧場であるド・メリック・ステーブルスへと移動を行います。アメリカでは名門とされるド・メリック・ステーブルスではありますが、日本では馴染みが薄いかと思われます。そこで、ニック・ド・メリック氏とも面識のある合田直弘氏にアメリカの育成事情及びド・メリック・ステーブルス、そして育成方針について解説を頂きました。

Main Topics
1.長きにわたってトップブランドとしての看板を守り続けているド・メリック・ステーブルス
2.競馬業界という荒波を渡っていく基礎を作った驚くべきニックの青年期
3.名門牧場で研鑽を積んだ妻ジャッキーとの出会いとド・メリック・ステーブルの旗揚げ
4.ド・メリック・ステーブルの事業成功と揺るぎないものとなったニックのステータス
5.心身の奥深くに内包している資質を、手間暇をたっぷりとかけて磨き上げたニックとジャッキーの育成方針

1.長きにわたってトップブランドとしての看板を守り続けているド・メリック・ステーブルス
  アメリカにおける馬産の中心地はケンタッキー州だが、競走馬の馴致・育成という分野でアメリカをリードしているのはフロリダ州である。
北半球で1歳馬の馴致が始まるのは秋で、2歳春までには競走馬としての体裁を整え、仕上がりの早い馬から入厩して競馬というのが、ごく一般的なタイムスケジュールだ。馬産地であるケンタッキー州は、中心地レキシントンの今年1月の数字を例に挙げれば、最高気温の平均が摂氏5度前後で、最低気温の平均が氷点下4度前後と、屋外で運動を行うにはいささか気象条件が厳しい。そこへいくと、フロリダ州の中でも育成場の多いオカラを例にとれば、同じ時期の最高気温が22度前後で、最低気温が7~8度と、若駒を鍛錬するにはまさに最適の気象条件を備えているのだ。そして、フロリダというと「常夏」のイメージを持たれる方もおいでかと思うが、同じオカラでは4月になっても朝方の気温が20度を上回る日は滅多になく、競馬場に送り出すまでの育成行程を涼しい環境の中で完結出来るのである。

(de meric stables Facebookページより引用)


フロリダ州には、前述したようにオカラを中心に、馬主や調教師から馬を預かり馴致・育成を施す業者が、大小取り混ぜて50件前後はあるとされている。「あるとされている」という曖昧な表現になったのは、育成業者が、1歳市場で馬を仕入れて2歳市場でこれを転売する「ピンフッカー」を兼ねていることが多く、つまりは浮き沈みの非常に激しい世界で、2歳セールが脚光を浴びるようになったここ四半世紀の間に、新規参入しては消滅した業者を筆者も数多目撃している。

逆に言えば、ある程度以上の規模を維持しつつ、20年以上にわたって育成業を営み続けている業者は、10件あるかないかといったところなのだ。

そんな栄枯盛衰が著しい世界で、長きにわたってトップブランドとしての看板を守り続けているのが、ニックとジャッキーのド・メリック夫妻が営むド・メリック・ステーブルスである。

(de meric stables Facebookページより引用)
 
2.競馬業界という荒波を渡っていく基礎を作った驚くべきニックの青年期
英国生まれのニックは、バークシャーのボーディングスクールで学んだ後、英国南部グロウスター郡のサイレンセスターにある農業大学で土壌管理を専攻。ニックはこの頃、自分の生涯は馬とともにあるべきと悟ったという。大学を出ると、ブライアン・スウィフト、ロジャー・スタック、R・C・スターディといった調教師のもとで研鑽を積んだ後、視野を広げたいと考えたニックは英国を離れることを決意した。

馬の世界に入った人間が、他国のやり方を見てみたいと思うのはよくあることだが、ニック・ド・メリックがそこから先に起こしたのは、穏やかで、一見すると控えめな性格の彼からは、想像しがたい行動だった。ニックは、世界放浪の旅に出たのである。

出掛けた先はオーストラリア、アジア、アフリカで、オーストラリアでは名調教師T・J・スミス(G・ウォーターハウス調教師の父)の厩舎で働いた時期もあったものの、一攫千金を夢見て黄金を探しに山に入ったり、ハーズマン(herdsman)としての職を見つけて牛を管理する日々を過ごしたり、農園でりんごを育てたりと、気の向くままに出向いた土地で、馬とは無縁の仕事を見つけては収入を得る毎日を送ったのである。後にニックは、自分が競馬業界という荒波を渡っていく上で、この時代の経験が大きな糧になったと語っている。

 
3.名門牧場で研鑽を積んだ妻ジャッキーとの出会いとド・メリック・ステーブルの旗揚げ
そんな彼が遂にアメリカ大陸に渡ったのが1980年代初頭で、実にその頃、生涯の伴侶であり事業のパートナーでもある妻のジャッキーに出会ったのだった。

米国北東部のコネチカット州で生まれたジャッキーは、幼少の頃から動物が大好きで、捨てられた犬や猫を拾ってきては甲斐甲斐しく面倒を見る少女であったそうだ。10歳の時に家族とともに移り住んだケンタッキーで、馬への愛に目覚めたのは、彼女にとって生まれる前から定められていた宿命であった。

ハイスクールに通うようになったジャッキーが、アルバイト先として見つけたのは動物病院で、学校よりもバイト先にいる時間の方が長かった高校生活を終えると、彼女はケンタッキーの生産牧場に職を得ることになった。

名門と言われるいくつかの牧場で研鑽を積むうち、ジャッキーが興味を持ったのは若駒の養育で、その後は研修の場を、セールスプリパレーションを業容とするコンサイナーに移すことになった。

1981年秋、ファシグティプトン社がメリーランドで開催したフォール・イヤリングセールに、コンサイナーの「リー・イートン(名牝Courtly Deeの所有者としても有名)」のスタッフとして臨場していたジャッキーは、そこでニックと出会った。アメリカに渡った後、クレイ・キャンプ、フレッド・セイズといった仲介業者のもとで働いていたニックが、購買者の一員としてセールに参加していたのである。

そこでは初対面の挨拶を交わしただけだった二人が、次に会ったのは、ピンフッカーのメイソン・グラスティーがルイジアナ州に持つフォックスファイア・ファームだった。組織の拡大を目指していたメイソン・グラスティーは、馬の扱いに長けた、これはと思う若者に「自分の牧場で働かないか」と声を掛けていたのだが、グラスティーにスカウトされた数人の中に、ニックとジャッキーが含まれていたのである。

ここで半年を過ごす間に、ニックとジャッキーは相思相愛の仲となった。

翌1982年の秋、二人は互いの貯金を切り崩して1頭の1歳馬を買い、手ずから馴致と初期調教を施した上で、半年後のOBSマーチ2歳セールで売却。看板こそ掲げていなかったが、実質的にはこれがド・メリック・ステーブルの旗揚げで、この時手にした少しばかりの利益で、二人は車を買い、友人知人を招いてささやかながらもウェディングパーティーを催したのだった。

二人の馴れ初めを長々と書いてきたが、つまりは、ニックとジャッキーは学生時代からこの道を志した筋金入りのホースマンとホースウーマンであり、今日の成功をゼロから自分たちの力で築いた叩き上げの苦労人であることを、読者の皆様に知ってもらいたかったのである。

(de meric stables HPより引用)
 
4.ド・メリック・ステーブルの事業成功と揺るぎないものとなったニックのステータス
オカラを拠点に若駒を育成することで生活を営んでいくことを決意した二人は、わずかばかりの土地や施設を借り受けることからスタート。徐々に規模を拡大し、じわじわと自らが所有する地所を増やしていき、今日では、エクリプス・トレーニング・センターとこれに隣接するマヌデン・ファームをあわせて、360エーカーもの敷地を有するまでに事業は拡大した。二人の間に生まれた長女のアレクサンドラも長男もトリスタンも、大きくなったド・メリック・ステーブルを支える重要な役割を果たしている。

(de meric stables Facebookページより引用)

G1テストSやG1プライオレスSを制したドリームラッシュ、G1シャンパンS勝ち馬ホームボーイクリス、G1ホープフルS勝ち馬カレンシースワップ、G1キングズビショップS勝ち馬カポバストーネ、5重賞を制した後に種牡馬としても成功したサクセスフルアピール(リトルゲルダの祖父)など、ド・メリック・ステーブルから巣立っていった活躍馬の名を挙げれば、枚挙に暇がない。

数多の一流馬を育て、事業者としても成功しただけではない。

競走馬の流通において、かつてに比べれば2歳市場の存在が遥かに重要になってきたことが誰の目にも明らかになった2000年、横断的組織として「ナショナル・アソシエーション・オヴ・2YOコンサイナーズ(NATC=全米2歳コンサイナー協会)」が設立された時、同業者たちに強く推されて初代理事長となったのが、ニック・ド・メリックだった。浮き沈みの激しいコンサイナー業界を生き抜いてきた、ひと癖もふた癖もある強者たちを束ねる役を担うのは、人柄の面でも実績の面でも、ニック以外にはありえなかったのである。

(de meric stables HPより引用)
 
5.心身の奥深くに内包している資質を、手間暇をたっぷりとかけて磨き上げたニックとジャッキーの育成方針
アメリカ生まれの広尾っ仔、Bijoux Miss ‘14が、ド・メリック・ステーブルスで育成されると聞いて、これぞ最高の選択であると、我知らず膝を打ち、一人で拍手をしてしまったのが、他ならぬ筆者である。

ニックとジャッキーの育成方針は、それをひと言で表すなら「馬本位」以外になかろう。

ド・メリック・ステーブルスにおいて、初期馴致はジャッキーの管轄である。

ハミを付け、鞍を置き、腹帯を締め、人を背に乗せるまでの行程に、ジャッキーは驚くほどじっくりと時間をかける。人間を背に乗せるという行為を、馬が納得して行うだけでは不充分なのだと、ジャッキーは語る。ハミを銜える、腹帯が体を縛める、体の上に人が乗るという行為を、馬が楽しいと思うように誘導しなくてはならないというのが、彼女の考えなのだ。

(de meric stables Facebookページより引用)

そしてこの過程において、馬たちが自分自身に自信を持つよう仕向けることに、彼女は心を砕く。叱られ怯えて人を乗せるのではなく、自分たちは人を乗せることが出来るのだと、自らの行為を馬が誇りに思うことが大切なのである。この段階で、馬たちが自分に自信を持つか持たないかが、その後の様々な局面…………新しいことを覚えたり、初めての場所に連れて行かれたり…………において、彼らの行動に大きな影響を及ぼすと、ジャッキーは考える。だから、馬が怯えていたり恐れていたりしたら、そうした感情を払拭出来るまで、次のステップへは進まないのがジャッキーのやり方なのだった。


(de meric stables Facebookページより引用)


本格的な調教の段階に入ると、ド・メリック・ステーブルの馬たちはニックの管理下に移される。

ニックもまた、間違っても馬に無理は強いぬ男である。

北米の2歳トレーニングセールと言えば、公開調教で1F=10秒を切るほどの猛稽古を披露する馬が登場することで知られている。そんな中、ド・メリック・ステーブルスからの上場馬が、公開調教でびっくりするような時計をマークしたケースを、筆者は見た記憶がない。

北米だけでなく世界各地で2歳市場がマーケットを拡大したことで、若駒を馴致育成する技術が大きな進歩を遂げるという、ポジティヴな効用があったことは確かである。だが、化骨もままならぬ若駒が、1Fという極端に短い距離を、完成されたサラブレッドでも実戦で記録することがない時計で走るという行為が、自然の摂理に反するという声も、関係者の間には根強くある。近年は、公開調教の際に危険回避以外の目的でムチを使うことを禁じる2歳セールが増えてきたが、これもそうした考えに基づくものだ。

「2歳セールを取り巻く状況は、ここ30年ほどの間に大きく変わりました」とニックは語る。「かつては、丈夫に育っていることと、しっかり馴致が施されていることが実証できれば、馬が売れたのが2歳市場でしたが、時代は変わりました。公開調教が、スピードがあることをアピールする、デモンストレーションの場となったのです」。

そんな時代の変化を重々承知しつつ、ニックは目先の利にのみ捉われた仕事は決してしない。調教は鍛錬であるゆえ、心身ともに準備の出来ている馬には強い調教を行うが、そうでない馬に過度の負荷をかけることはしない。各々の個性と生育度合に合わせてメニューを組み、仕上げていくのがニック流である。

(de meric stables Facebookページより引用)

Bijoux Miss ‘14は、大いなる素質を秘めた期待馬である。馬体の面でも血統の面でも奥行きがあり、将来の大成が望まれる若駒だ。その一方で、Bijoux Miss ‘14は牝馬である。そして同馬は5月17日という遅生まれで、その面ざしには幼さが色濃く残っている。

そんな段階の彼女に、いきなり過度の負荷をかけてしまうと、持てる素質が潰されてしまう懸念があるが、ド・メリック・ステーブルスであれば、その心配は無用だ。ニックとジャッキーであれば、Bijoux Miss ‘14が現段階では心身の奥深くに内包している資質を、手間暇をたっぷりとかけて磨き上げてくれるはずである。

ニックとジャッキーが、アメリカ生まれの広尾っ仔にどのような育成を施すか。プロフェッショナルによる手練の技を、じっくりと見させていただいたいと思っている。
 

Bijoux Miss'14
(父Hansen 母父Buddha) 
二ノ宮敬宇厩舎管理予定
販売総額 2,200万円 / 総口数 400口 
一口価格55,000円